資料/旭川中央図書館 ・編集制作/旭川冨貴堂
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西暦   和号・年月日              <年齢及び出来事>
1901  明治34年  9月9日 小樽にて出生 小樽市稲穂町東8丁目4番地
当時の小樽
人口71,724人
9,867戸 
父:三木清次郎1864年生
(洋服・毛皮仕立職人)
母:小熊マツ 
姉:ハツ(7歳上1894年生)
1904 明治37年 10月 3歳 母を亡くす 実母マツ33歳にて死去
小樽大火
2,481戸焼失
姉:ハツは小樽の安田家へ
養女に
当時の稚内 
人口9,228人
1,938戸
稚内へ移住 父:清次郎、ナカと結婚 一家は
稚内に移住
両親は樺太に移住 間もなく父と継母は樺太郡豊原
に移住
1912 明治45年 11歳秋田に転校 父方の叔母の住む秋田県大館の
小学校に転校
(稚内・豊原・大館を経て)さらに、
樺太西海岸の
再度樺太へ 泊居に移住(小学時代は稚内・
豊原・大館・泊居)
1916 大正 5年 15歳 卒業 泊居の尋常高等小学校2年を
卒業後、漁師や昆布採り、養鶏場、
職業の遍歴 炭焼き、農業の手伝い、材木人夫
パルプ工場の職工などを転々とし
この時右手の食指、中指の2本を
機械に挟まれて失う
指の怪我
樺太全土
人口66,280人
14,624戸 
農奴時代 のちに小熊自身この頃のことを
農奴時代と言った
1921 大正10年 20歳 徴兵検査 母マツの私生子であることを知lり
以降小熊姓を名乗ることとなる。
(それまで三木姓)
旭川来訪 3歳の時別れた姉ハツが旭川
にいることを知り、尋ねて18年
ぶりに再会
この頃の小樽は
人口111,939人
21,778戸
小樽で行商 小樽で呉服店店員となり、
反物行商をする
1922 大正11年 21歳 旭川居住  この年旭川市制施行となる
当時の旭川人口
62,462人
12,371戸
新聞記者 旭川の姉の所に寄寓し、
旭川新聞の見習い記者となり
間もなく社会部記者に、
文才を認められ文芸欄も担当す
1923 大正12年 22歳 最初の詩作 旭川新聞に詩作品「奪われた魂」
などの他童話も
ペンネーム
執筆活動
手がけ、ペンネーム「悪魔詩社
小熊愁吉(醜吉)」「黒珊瑚」で作品や取材記事を書く
1924 大正13年 23歳 最初の上京 画家高橋北修と共に上京し
同宿、詩を売り歩くが
一編も売れず挫折して帰旭
1925 大正14年  2月 24歳 結婚 神居小学校の音楽教師、
崎本つね子(1903生)と結婚、
   4月 上京2回目 4月に上京、松竹キネマへ
入社を図るが不採用となり、
 7月 帰旭 7月旭川に戻る
(9条15丁目に住まう)
 9月 妻妊娠樺太へ 妊娠中の妻を樺太の父の家に
預け旭川に戻る
1926 大正15年  1月 25歳 長男出生 長男「焔」と名付け、
2月妻子共に旭川に来る
旭川新聞社復職 再び新聞社に勤め、旭川
歌話会の設立に参加し
     9月 若山牧水夫妻、齋藤瀏を訪ね地元歌人等と交流 
11月 旭川歌話会設立 短歌をつくる
       
1927


昭和 2年 3月 26歳 詩誌発刊 今野大力、鈴木政輝らと
詩誌「円筒帽」を発刊し、
精力的な執筆のかたわら、油彩を描く
  3月19日 旭川歌話会顧問の齋藤瀏が熊本の第11旅団長として転任、第5回旭川歌話会を送別歌会として齋藤親娘に歌を捧げ小熊も詠じた。
11月 油彩を描く 油彩「妊婦」を描く。
挿絵とエッセイ この年に旭川新聞に挿絵を
入れたエッセイを連載
1928 昭和 3年  4月 27歳 父死去 旭川新聞社を退職し、
家族を伴い6月上京す
         
 6月 3回目の上京 巣鴨向原、杉並区堀之内に住む
(一時今野、鈴木
業界紙の編集 等と同居)、「国本」「麻船具」
「実業新報」の編集
1929 昭和 4年 28歳 都内転居 豊島区長崎町に転居し、
以降も転々 
「樺太節」 12月から翌年にかけて民謡調
の詩を「民謡音楽」に掲載
1930 昭和 5年 29歳 都会の飢餓 長男焔の入院治療費の未払い、
家賃の滞りなど
窮乏の生活で自らも喘息の
発作に苦しむ
1931 昭和 6年  5月 30歳 詩人会 プロレタリア詩人会に入会、
「スパイは幾万ありとても」発表
10月 文学運動参加 プロレタリア文学運動に参加
1932 昭和 7年

 1月 31歳ナルプに参加 詩人会が日本プロレタリア作家
同盟(ナルプ)に所属することで
解消し、ナルプに参加
弾圧検挙 上部組織日本プロレタリア文化
連盟(コップ)への弾圧検挙。
小熊も29日間拘留。
10月 10月 「代表送別の詩」を。
1933 昭和 8年  2月 32歳 2回目の拘留 多喜二の悲報に集い藤森成吉ら
3人と逮捕さる
 (小林多喜二獄死) 29日間の再拘留、弾圧のため
発表の場を失う
ゴーゴリの影響 このころマヤコフスキー、
プーキシン、ゴーゴリなどを読み
その影響を受ける
1934 昭和 9年  2月 33歳 「詩精神」創刊 遠地輝武・新井徹らと詩誌
「詩精神」を創刊、
詩作品を多数発表 
デッサン・ペン画 近所に住む画家の寺田政明と
知己を得てアトリエ通い、
デッサン・ペン画を多く描く
1935 昭和10年  5月 34歳 詩集刊行 小熊秀雄第一詩集
(寺田政明装丁、耕進社)刊行
 6月 長編詩「飛ぶ橇」(前奏社)、
「善良の頭目として」
10月 「長長秋夜」など「詩精神」に
発表(10月廃刊)
11月 機関誌の発刊・解散 「太鼓」を発行、翌年2月に
解散を命じられる
美術評論執筆 「洋画壇時評」「画観」に
美術評論を執筆
1936 昭和11年  2月 35歳 「詩人」発刊 「詩精神」を改題「詩人」を
発刊、「パドマ」ほか
読売新聞の文壇諷刺詩、
諷刺文が好評
多数の雑誌掲載 「詩人」「文芸」「文芸春秋」
「文学評論」「テアトロ」
(詩・小説・評論) 「文芸首都」「新劇人」
「中央公論」などに発表す
1937 昭和12年  1月 36歳 俳優人物詩 「月刊新協劇団」に宇野重吉
など取材6月まで。
 2月 個展を開く 池袋の喫茶店でデッサン・
ペン画の個展
 4月 匿名評論 「都新聞」の匿名批評欄
「大波小波」を連載25回
大学新聞に寄稿 「帝大新聞」「早稲田新聞」
「三田新聞」「関西学院
新聞」に文芸・美術・演劇評論・
評論・詩作品寄稿
1938 昭和13年  1月 37歳 東京風物伝 3月まで「農大新聞」に風物詩
「東京風物伝」を
 4月旭川風物詩 旭川に帰省、旭川新聞に
「旭川風物詩」を連載
 6月 帰京、登山・喀血 逗子の知人を訪れ山登りで
喀血以降悩まされる
 7月 「槐」を創刊 大井広介、本庄陸男らと「槐」
を創刊
油彩「自由像」 油彩「自由像」を描く、
小説「犬は何故尻尾を振る
 8月 小説発表 か」(中央公論八月)発表
1939 昭和14年  2月 38歳 日本画家論 「歌謡詩人」「詩と美術」に
「日本画家論」を掲載
 5月 「槐」に長詩「託児所をつくれ」
つづいて8月には
 8月 「諷刺大学生」「哀憐詩集」を掲載
12月 「現代文学」創刊 大井広介、平野謙、佐々木基一、
荒正人等と創刊
その他「国民新聞」「中央公論」
などに評論を掲載
1940 昭和15年  1月 39歳  「現代文学」に「愚感詩集」
 2月 「現代文学」に「逍遙詩集」
 4月 「現代文学」に「流民詩集」
 6月 「現代文学」に「通信詩集」
 5月 旭太郎のペンネームで子供漫
画のための台本を書いた
「火星探検」(大成のぼる画)・
【中村書店】
11月 20日午前5時逝去
(行年40歳)
豊島区千早町1の30番地、
東荘アパートの自室にて
肺結核で逝去  
[戒名 徹禪秀學信士]
12月 追悼号遺稿詩掲載 「現代文学」に「画帳」「無題」
ほか挿絵
遺稿詩の掲載 『詩と美術』に詩「親と子の夜」
が掲載される
1941 昭和16年 遺作デッサン展を
銀座で開催
1947 昭和22年 『流民詩集』
(中野重治編
 三一書房)      
1967 昭和42年  5月 小熊秀雄詩碑建立
旭川常磐公園
小熊秀雄賞の制定 旭川文化団体協議会の提唱で
発足、第1回公募始まる
1982 昭和57年 11月 賞制定15回を記念し、
受賞詩人集を編纂・発行
旭川文化団体協議会
事務局長谷口広志編
(馬車の出発の歌)
小熊秀雄賞ブロンズ像旭川中央図書館
資料展示コーナー

小熊秀雄について 作品抜粋紹介 その39年の略年譜 研究文献と執筆者


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