旭川ゆかりの彫刻家 

ミケランジェ口 (1475〜1564) イタリアの彫刻家 ・画家・建築家。
 13歳の時から絵画、彫刻を学ぶ。
<ピエタ>(1499年)、<ダビデ>(1504年)などの彫刻を完成させる。その後、1508年から4年間かけて、旧約聖書・創世記の物語を<天地創造><人間の堕落><ノア物語>の三場九画面に描きあげる。また、彫刻<モーゼ>、壁面<最後の審判>など、すぐれた作品を残し、ルネサンス期、最大の芸術家といわれている。
 荻原守衛、中原悌二郎らが最も尊敬した芸術家のひとりである。

ロダン (1840〜1917) フランスの彫刻家。
 少年時代から彫刻に情熱をいだく。 1875年、イタリアを旅し、ミケランジェロをはじめ、数々の偉大な芸術家に接し、強烈な刺激を受ける。彫刻に内的な真実を盛り込み、生命感を表現することを目ざした。1877年、発表された<青銅時代>をはじめ、<地獄の門><カレーの市民><バルザック>など、数々の傑作を生み、近代芸術のなかに大きな位置をしめ、近代彫刻の父と呼ばれている。<地獄の門>の一部である<考える人>は、多くの人びとの心を揺り動かした。荻原守衛、高村光太郎らによって日本に紹介されたロダンの芸術は測り知れないほど大きな影響をあたえた。                 

ブールデル (1861〜1929) フランスの彫刻家。
 少年時代から彫刻的才能が認められる。美術学校で学び、23歳でパリにでて、フランス美術家協会展、国立美術協会展などに出品、32歳のとき、ロダンの助手になる。1900年、<アポロンの首>完成、この作品をみたロダンは「君は私を越えた」と深く感動する。1910年、<弓をひくへラクレス>によってロダンの後継者として世に認められる。建築的な構成やきびしい骨組など独自の様式によって、ロダンとは別の境地を切り開いた。<アルヴェアル将軍騎馬像><ラ・フランス>など、すぐれたモニュマンを残している。 
フランスに渡った日本の彫刻家の多くがブールデルに学び、日本の近代彫刻にも大きな影響をあたえた。
新海 竹太郎 しんかい たけたろう (1868〜1927)

 明治6年、山形県に生まれる。明治19年、上京。
 21年に徴兵され、騎兵隊に属す。その間に馬の彫刻を制作する。除隊後、後藤貞行、小倉惣次郎につき学ぶ。明治33年、ドイツに渡り、ベルリン美術学校教授へルテルに師事し、官学派の古典主義的彫塑を修め、明治35年帰国する。明治40年の第1回文展から審査員を務めると共に、<あゆみ><露営>を出品して好評を博す。明治41年、太平洋画会研究所塑造部新設にさいして指導者となる。彫刻に転じた戸張孤雁、中原悌二郎らの指導をする。大正6年、帝国技芸員、8年には帝国美術院会員となる。大正14年<大聖歓喜天像>、昭和元年<老子>などを制作したが、翌年2年、他界している。
林 竹治郎 はやし たけじろう (1871〜1941)
 明治4年、宮崎県に生まれる。東京美術学校特別課程を修了。岡山、福島などで教師を務め、明治31年に北海道師範に赴任、33年から札幌中学校(現札幌南高等学校)に勤務する。その後、藤高等女学校の教師を務めるなど、四十年余にわたって北海道の美術界および美術教育に果した役割は大きい。
 明治40年、第1回文展に<朝の祈り>が入選。始めての全道組織である北海道美術協会(道展)の創立にも参画しており、昭和14年、北海道を離れるまで道展に作品を発表している。昭和16年、69歳で他界。
平櫛 田中 ひらぐし  でんちゅう (1872〜1979)
  明治5年、岡山県に生まれる。本名は田中倬大郎、後に平櫛家の養子となる。大阪の中谷省古に木彫の手ほどきを受ける。明治30年、上京して高村光雲を訪ね、以後、山崎朝雲、米原雲海の仕事を見て、自ら学ぶ。明治40年、文展に<姉ごごろ>が入選する。朝雲、雲海らと日本彫刻会を結成、翌年41年、日本彫刻会第1回展に<活人前>を出品、岡倉天心の推奨を受ける。
 大正3年、再興日本美術院展覧会に出品、同人に推される。彫刻部の中心となり、佐藤朝山、石井鶴三、戸張孤雁、中原悌二郎らの新鋭を同人に迎える。
 昭和12年、芸術院会員となる。昭和19年、東京美術学校(現東京芸術大学)の教授となる。昭和37年、文化勲章を授与される。昭和44年、岡山県井原市に田中館が作られる。46年、百寿を記念して「平櫛田中賞」が設定される。昭和54年、小平市の自宅で、108歳の生涯を終える。
 悌二郎とは、日美術院以来の友人で、死後『中原悌二郎作品集』を編集し、「中原君に就いて僕の知っている事」(『彫刻の生命』)を書いている。昭和36年、悌二郎の作品が旭川にもたらされるために尽力すると共に、中原悌二郎賞の選考委員も務めた。
岡田 虎二郎 おかだ とらじろう (1872〜1920)
 明治5年、愛知県に生まれる。小学校卒業後、農業に従事、農事の研究改良に取り組む。明治30年、アメリカに渡り、帰国後、山梨県の山中で黙坐黙想。明治43年から郷里で、静坐の指導をはじめる。坐禅の方法に東洋的観念論とプラグマティズムの思想とをあわせもつ独特の腹式呼吸法で、岡田式静坐法と呼ばれた。会場を東京に移し、隆盛をきわめた。相馬黒光、中原悌二郎、中付彝、伊藤信をはじめ、木下尚江、田中正造、逸見斧吉らも来会し、彼らに大きな影響を与えた。木下尚江は「余が思想の一大転化は静坐の賜也」と語っている。明治45年に出版された『岡田式正坐法』「実業へ日本社」)はベストセラーとなった。
 大正9年に急死している。

相馬 黒光 そうま こっこう (1876〜1955)
 明治9年、宮城県に生まれる。名は良。宮城女学校に入学したが、中途で横浜のフェリス女学校に移り、さらに明治女学校に学んでいる。新しい教育を受け、才気に満ちた新しい型の女性であった。卒業後の明治30年、長野県穂高出身の相馬愛蔵と結婚し、穂高で生活を始める。この穂高時代に荻原守衛に大きな影響をあたえる。その後、愛蔵と共に上京し、本郷で中村屋を営む。後に新宿に移る。明治40年、帰国した荻原守衛を助ける。中村屋で美術仲間の月例会を開くなどして、美術家、文学者の出入りが多く、サロン的様相を呈する。守衛の死後、作品の保存に努める。明治44年、中村彝が中村屋裏のアトリエに移るのを助ける。『穂高高原』『黙移』『滴水録』などの著書を残し、昭和30年に没している。
碌山 ろくざん ・荻原  守衛 おぎわら もりえ (1879〜1910)
明治12年、長野県に生まれる。碌山は号。高等小学校校卒業後、家業を手伝う。
 井口喜源治、相馬愛蔵らの影響を受ける。相馬愛蔵・良夫妻宅で、長尾杢太郎の油絵<亀井戸風景>を見て感動。明治32年、画家を志して上京、小山正太郎の不同舎に学ぶ。34年にアメリカに渡り、絵画の勉強を続け、ニューヨークで戸張弧雁を知る。36年、フランスに渡り、高村光太郎らを知る。翌年ロダンの<考える人>を見て、芸術の威厳に打たれ強い衝撃を受け、彫刻家に転向する。その後、ロダンの指導を受け、明治41年に帰国する。新宿・中村屋に近い角筈にアトリエを完成。
 第2回文展に<女の胴><坑夫><文覚>を出品するが、<文覚>だけが入選(三等賞)、翌42年、<デスペア><北条虎吉像><戸張孤雁像><労働者>などを制作、第3回文展に<北条虎吉像>(三等賞)、<労働者>が入選する。
 明治43年、<女>を制作し、柳敬助の画室の建築を指導完成させた4月20日の夜、中村屋で吐血して、22日、31歳と6か月の生涯を終る。
  守衛の作品は、中村屋に保管されていたが、大正4年、生地・長野県穂高町に返り、昭和33年には、碌山美術館が開館し、全作品が展覧されている。
10 戸張 孤雁 とばり こがん (1882〜1927)
 明治15年、東京に生まれる。本名は志村亀吉、後に母方の戸張家を継ぐ。子どものころから絵に興味をもつ。小学校卒業後、片山潜に英語を学ぶ。明治34年、アメリカに渡り、絵を学ぶ。すでにニューヨークに来ていた荻原守衛と知り会い、帰国後も交流する。
 明治43年、守衛の死に接し、太平洋画会研究所彫刻部に入り、中原悌二郎と共に、守衛の後継を志す。
 翌年の第4回文展に<おなご>を出品、入選する。大正5年、日本美術院彫刻部に転じ、翌年同人となる。<足芸><虚無>などの代表作がある。彫刻のほかに水彩、版画、挿絵など、多才な才能をもち活動をする。昭和2年、46歳で他界する。
11 高村  光太郎 たかむら こうたろう (1883〜1956)
 明治16年、東京に生まれる。東京美術学校彫刻科を卒業後、明治39年にアメリカに渡り、さらにロンドン、パリで学ぶ。その間、柳敬助、荻原守衛を知る。42年に帰国。
 詩作を志すかたわら、西欧の近代芸術思潮の紹介に努める。大正3年ころから彫刻に専念、<裸婦坐像>(手)<腕>などを制作、大正5年に『ロダンの言葉』を出版したのをはじめ、ロダンの紹介に努める。また、大正3 年に出版された『道程』をはじめ、『智恵子抄』『典型』など、すぐれた詩集を発表し、詩部門で芸術院会員に推されたが、彫刻家を自任して辞退。
 大正13 年以降、<蝉><飴><桃>などのすぐれた木彫を制作する。晩年、唯一の記念的大作である<みちのく>を昭和28年に完成させ、31年に没している。
12 中村 彝 なかむら つね (1887〜1924)

中村 彝 自画像 
 明治20年、茨城県に生まれる。陸軍幼年学校に入ったが病気で退学する。房州での転地療養中、洋画家を志し、鉛筆や水彩でスケッチを続ける。明治39年、白馬会菊坂研究所に入る。秋、白馬会溜池研究所に移って、中原悌二郎を知る。翌年、悌二郎を追って太平洋画会研究所に移る。
 41年、悌二郎と荻原守衛のアトリエを訪ね、影響を受ける。 42年、第3回文展に<巌><曇り>が入選、翌年の第4回文展では<海辺の村>が三等賞となる。第5回文展でも<女>が三等賞となる。 44年12月、相馬夫妻の好意で、中村屋裏のアトリエに移り住む。相馬家の長女、俊子をモデルにした作品を多く描く。
 大正4年、相馬夫妻に俊子との結婚を申し込むが、強い拒絶にあう。第9回文展に<保田龍門像>を出品、最高の二等賞を受け、文部省買上げとなる。
 大正5年、第10回文展で<田中館博士像>が特選を受ける。大正9年、鶴田吾郎と共に描いた<エロシェンコ氏の像>を第2回帝展に出品し、賞賛を受ける。大正11年、帝展審査員に推されるが、13年12月、37歳の生涯を終る。
 悌二郎とは、白馬会の研究所以来の親友で、その友情は終生かわることがなかった。病床で悌二郎の死を報じた新聞を読み終るなり、ズタズタに引裂いて泣き入ったと伝えられている。また、病床のなかで「中原君を憶ふ」(『彫刻の生命』収録)を『東京朝日新聞』に書いている。
13 石井 鶴三 いしい つるぞう (1887〜1973)
 明治20年、東京に生まれる。遠縁の加藤景雲に木彫を学ぶ。また、不同舎に入って小山正太郎に絵画を学ぶ。明治38年、東京美術学校に入学、43年に彫刻科選科を卒業する。在学中、第2回文展で、守衛の<文覚>を見て感動し、触発される。明治44年、第5回文展に<荒川嶽>が入選、褒賞を受ける。
 佐藤朝山を知り、そのすすめで大正4年、日本美術院彫刻部に入り、中原悌二郎、戸張孤雁らと研究に励む。
 5年に同人となる。昭和19年から母校の教授をつとめ、25年には日本芸術院会員となる。彫刻のほかに油彩、水彩、版画、挿絵など、多方面にわたって活躍する。デッサン力を駆使した挿絵は、挿絵界に新風を送り、人気を博した。          −
 日本美術院以来、悌二郎の親友で、死後「中原君と私」(『彫刻の生命』)を書き残している。また、昭和45年、旭川市が中原悌二郎賞を創設したさい、尽力し、第1回の選考委員会の委員長を務めている。昭和60年、上田市に「石井鶴三美術舘」が作られた。
14 佐藤 朝山 さとう ちょうざん (1888〜1963)
  明治21年、福島県に生まれる。本名は清蔵、幼いときから宮彫師の父や伯父に木彫を習う。明治37年、山崎朝雲の内弟子となる。大正3年、再興日本美術院第1回展に<呪阻><シャクンタラ姫><野人>などを出品、同人となる。第2回院展で<シャクンタラ姫とドウシャンタ王>を発表するなど、院展木彫の中心的存在となる。また、石井鶴三、中原悌二郎、戸張孤雁などを美術院に迎えるのにかかわる。大正11年、美術院からの派遣でフランスに渡り、ブールデルに学ぶ。大正13年、帰国、西洋近代彫刻と伝統的木彫技術を融合させた作風を展開する。昭和14年、<和気清麿朝臣像>を制作。晩年、東京三越本店の<天女像>を制作。昭和38年、75歳で他界する。
15 鶴田 吾郎 つるた ごろう (1890〜1969)
 明治二十三年、東京に生まれる。明治39年に白馬会研究所に入る。広瀬嘉吉、白山仁太郎、高野正哉、雨宮雅卿、中原悌二郎、中村彝らが仲間におり、七人組と自称する。翌年、太平洋画会研究所に移る。
 明治41年、川端龍子と知り会い、生涯を通じて友情を持ち続ける。大正6年、大陸に渡り、9年3月に帰国。太平洋画会展に<水先案内>を出品、太平洋賞を受賞、会員となる。第2回帝展に<盲目のエロシェンコ>を出品、入選する。その後、帝展、文展、日展に出品する。 
 大正13年、中村彝の死に接し、遺作展、画集、遺稿の発行にかかわる。
昭和44年、78歳で他界するが、それまで、日本国内はもちろん、中国、蒙古、シベリア、北欧、南欧、インドなどを旅し、多くの絵を残している。
16 堀 進二 ほり しんじ (1890〜1978)
 明治23年、東京に生まれる。39年、太平洋画会研究所で、デッサンを学ぶ傍ら新海竹太郎につき塑造彫刻も学ぶ。翌年、同研究所に移ってきた中原悌二郎、中村彝を知る。以後、鶴田吾郎、戸張孤雁らと共ども親交を深める。明治43年、帰国した荻原守衛を知り、守衛の語るロダンの芸術に関心を示す。同年、19歳で第3回文展に<のび>が入選す。翌年、守衛のアトリエを訪ね、制作中の<女>を見て感動し、彫刻への志向を強める。大正5年、第10回文展に<H老人の肖像>を出品、特選を受け、7年まで連続3回特選、文展無鑑査となる。大正5年から日本美術彫刻部に通い、平櫛田中、佐藤朝山、石井鶴三らを知る。
 その後、東京大学、千葉大学で教鞭をとり、昭和33年、再建された太平洋美術学校の校長に推される。
 悌二郎とは、太平洋画会以来の親友で、大正5年に制作された<中原悌二郎像>がある。また、悌二郎の死後、「中原君に就いての追憶」(『彫刻の生命』)を書いている。
17 米川 正夫 よねかわ まさお (1891〜1965)
 明治24年、岡山県に生まれる。少年時代よりロシア文学に親しみ、明治42年、東京外語露語料に入学、級友と雑誌『露西亜文学』を創刊、45年、東京外語を首席で卒業。同年11月、第七師団将校露西亜語研究会の教官として旭川に赴任。在旭中に萬鉄五郎、中原悌二郎、岡田三郎らと交流。大正5年、同研究会廃止により帰京。7年から陸軍大学ロシア語教授となる。
 戦後は早稲田大学の教授を務める。大学時代から一貫して翻訳に取り組み、ドストエフスキー、ツルゲーネフ、トルストイをはじめ、その翻訳は枚挙に暇がない。日本ロシア文学会会長、日ソ図書館館長なども務め、日ソ親善にもつくした。昭和37年、自伝『純・根・才』(河出書房新書)がある。昭和40年没。
18 保田 龍門 やすだ りゅうもん (1891〜1965)
 明治24年、和歌山県に生まれる。本名は重右衛門、小学校の代用教員を経て、大正元年、東京美術学校西洋画科に入学。在学中、第2回二科展に<自画像>などが入選する。大正6年、第11回文展で油絵<母と子>が特選となる。同年、卒業後に日本美術院研究所彫刻部に入る。翌7年、彫刻<石井氏像>が第5回院展で樗牛賞を受け、院友となり、大正9年同人に推される。同年、アメリカに渡り、のちパリでブールデルの指導を受け、12年に帰国する。帰国後、郷里に居住して院展に出品を続けたが、戦後は発表せず、大学などで教鞭をとる。昭和40年、73歳で死亡する。
19 加藤 顕清 かとう けんせい (1894〜1966)
 明治27年、岐阜県に生まれる。北海道深川市に移住。
大正2年、上川中学校(現旭川東高)を卒業。 大正4年、東京美術学校彫刻料に入学、卒業後、油絵科に再入学、卒業する。大正10年、第3回帝展に<静寂>が初入選、その後、毎年入選、帝展、文展、日展を中心に活動する。
昭和27年、<人間像>で芸術院賞を受ける。37年、日本芸術院会員。41年 に日本彫塑会会長に就任したが、12月に72歳で他界した。
 加藤顕清は、平櫛田中と共に、中原悌二郎の作品を旭川にもたらすために尽力し、昭和36年に、それを実現させた。今も旭川市内に数多くの作品が設置展示されている。
20 二階堂 栄 にかいどう さかえ (1896〜1983)
 明治29年、岩手県に生まれる。幼い時、一家で旭川に移住する。少年時代から画家を志す。大正3年、病気療養のために帰郷していた悌二郎に出会い、画家志願を強固なものにする。その後、上京し、長与善郎の書生となり、『白樺』の編集を手伝う。大正12年、春陽会第1回展に<石と空>が入選する。これ以降、同郷・岩手出身で、旭川の第七師団にいたことがある萬鉄五郎の知遇を受ける。大正14年、郷里の水沢市と旭川市で個展をおこなっている。昭和12年、東京の日動画廊において「二階堂栄洋画展」を最後に発表活動から遠ざかる。昭和58年、87歳で没したが、遺族によって「町田デッサン館」が作られ、作品が展示されている。また、悌二郎が、二階堂栄に出した手紙が旭川に寄贈されている。