旭川ゆかりの彫刻家 (引用出典)
年代 西暦 年号 年齢 出来事 場所・地名 関係人物
誕生 1888 明21 当歳 10月4日
北毎道釧路町大字真砂町100番地3号に生まれる。
父・忠四郎、母・タキの第五子次男として誕生、兄弟姉妹は8人、
父は荒物雑貨の卸し、小売を業とする。


北海道釧路町   父・忠四郎
母・タキ 
小学校 1894 明27 6歳 4月、学齢より1年早く、姉テルについて釧路町日進尋常高等小学校に入学する。

日進尋常高等小学校 姉テル
旭川へ
転校
1897 明30 9歳 4月、母・タキと共に旭川を訪れ、旭川町2条通5丁目88番地で、雑貨商を営む叔父・茂助(母・タキの弟)の養子となる。
旭川町忠別尋常高等小学校(現・知新小学校)の3年に転入する。


忠別尋常高等小学校 叔父・茂助
(母・タキの弟)
札幌中学へ
入学
1902 明35 14歳 3月、忠別尋常高等小学校高等科を終了し、
4月、北海道庁立札幌中学校(現・道立札幌南高等学校)に入学する。
7月から中学校へ赴任してきた図画教師・林竹治郎の影響を受けて、画家の志を持つ。


札幌中学
(南高校)
図画教師・
林竹治郎
落第
画家志望
上京
1905 明38 17歳 札幌中学校第3学年で落第する。
11月3日、画家を志し、養家に秘して友人と上京し、四谷戒行寺に同宿する。

四谷戒行寺 友人
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絵画の研さん 1906 明39 18歳 1月、赤坂溜他の白馬会洋画研究所に入り、絵画の研さんに務める。秋に白馬会菊坂洋画研究所から移ってきた中村彝と知り合い終生の友となる。
高野正哉、 鶴田吾郎、広瀬嘉吉、野田半三、白山仁太郎らとも知り合い親しくなる。


赤坂溜他
白馬会洋画
研究所
中村彝
高野正哉
鶴田吾郎
広瀬嘉吉
野田半三
白山仁太郎
第1回文展に
落選
1907 明40 19歳 2月、下谷区池の端七軒町に移り、自炊生活を始める。
2月18日、白馬会洋画研究所の指導に不満を持ち、太平洋画会研究所に移り、中村不折、満谷国四郎の指導を受ける。堀進二、川端龍子、坂本繁二郎、上川知治らと知り合う。
3月、中村彝も太平洋画会研究所に移る。釧路の実母・タキが養家に内緒で毎月7円の学費を送ってくれる。
10月、第1回文展に水彩<神田川の風景>を出品するが落選する。


太平洋画会研究所
下谷区池の端
中村不折
満谷国四郎
堀進二
川端龍子
坂本繁二郎
上川知治
徴兵検査 1908 明41 20歳 3月、荻原守衛(碌山)が帰国、初夏、中村不折と太平洋画会研究所に来て、初めて会う。その後、中村彝と新宿角筈の碌山のアトリエを訪れ、彫刻への理解を深める。新宿・中村屋を経営する相馬愛蔵・黒光夫妻とも親しくなる。7月10日、徴兵検査のため旭川に帰り、秋に再び上京する。

新宿・中村屋 荻原守衛
(碌山)

相馬愛蔵・
黒光夫妻
ペソキ画 1909 明42 21歳 日暮里・諏訪神社前に部屋を借り、自炊生活をする。前年、釧路の実家で経営する漁船が遭難し、漁夫の家族の補償や弟・誠三の病気療養のため余裕がなくなり、夏頃から学資が途絶えがちになる。ペソキ画を描いて生活費を稼ぐ。

日暮里・
諏訪神社前
弟・誠三
新聞配達 1910 明43 22歳 4月22日、守衛が急逝。守衛の影響もあり、彫刻に転じる。太平洋画会研究所の彫刻部で、新海竹太郎らの指導を受ける。
8月の第9回太平洋画会展に<女の顔><子供の首>を出品、秋の第4回文展に<老人>が入選し、注目される。
本郷の万乾舎、菊坂の飯屋の二階と転々と寄宿し、新聞配達で生活の資を得る。


本郷の下宿 新海竹太郎
彫刻を志す 1911 明44 23歳 5月、第10回太平洋画会展に<少女の胸像>を出品する。
10月、第5回文展に<青年の首>を出品したが落選する。月謝を払えず、師・新海竹太郎の好意で免除される。。
守衛を通して戸張孤雁を知る。この頃から彫刻を志

中村彝の下宿、日暮里・晩翠館に移る。彝、相馬夫妻の好意で中村屋の裏のアトリエに移り住む。

日暮里・
晩翠館
戸張孤雁
静坐会に参加

ロダソに感動

肺炎罹病
1912 明45 24歳 本郷駒込駄木町福春館に移り、森精一郎、諸口十九等と同宿する。
2月16日、戸張孤雁と第四回白樺美術展に行き、はじめてロダソの作品に接し感動する。「ロダソの展覧会を見て」を『みずえ』第85号に掲載する。
4月から孤雁のアトリエで、互い忙モデルになり制作する。4月22日、中村屋で行われた碌山三回忌に出席する。
日暮里・本行寺で行なわれていた岡田虎二郎の静坐会に参加し、岡田の人格に帰服する。静坐会で相沢肇、石本憲吾、坪井経蔵、三宅伊三郎等を知る。閉め切った室内でペソキ画を描き続け、栄養不良と、腐敗した空気によって肺炎にかかる。
本郷駒込駄
木町
森精一郎
諸口十九
岡田虎二郎
相沢肇
石本憲吾
坪井経蔵
三宅伊三郎
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生活苦 1913 大2 25歳 <諸口十九像>を制作する。長杏部英一を知る
生活に追われる日々が続く。


日暮里・本行寺 長杏部英一
旭川で保養 1914 大3 26歳 1月、木下尚江の紹介で中村屋に世話になっていた伊藤信に初めて会う。春、初めて喀血する。<裸婦習作>を制作する。
 初夏、健康がすぐれず、保養のために旭川に帰る。第七師団(旭川)でロシア語の教官をしていた米川正夫と知り合う。
母校の小学校の校長の肖像画などを描き、学資を貯える。旭川の同人雑誌『呼吸』(11月号)に「ロダンの彫刻に現れたる思想」を書く。<石本氏像>を写真によって造る。
洋画家志望の二階堂栄が悌二郎に会い、強い影響を受ける。上京後も交流が続く。

第七師団(旭川) 木下尚江
伊藤信
米川正夫
短歌

肖像画
1915 大4 27歳 静養を続けながら、その心境を短歌に託す。
五月健康が回復し、1年ぶりに上京する。日暮里、谷中辺りを転々とし、肖像画を描いて生活費を得る。
保田龍門を知り、<保田龍門像>を制作する。<戸張孤雁像><裸婦像>も造ったが、意にそぐわず壊す。毎日本行寺の静坐会に行く、ときおり伊藤信を見かける。
年末に、谷中初音町一丁日の髪結床屋の二階に寄宿する。


本行寺
谷中初音町
保田龍門
樗牛賞

婚約
1916 大5 28歳 谷中墓地前・谷中茶屋町に移り住む。春、<三宅弁二郎像><坪井経蔵像>を制作する。
4月、戸張孤雁と前後して再興日本美術院研究所彫刻部に入り、生涯の知友、平櫛田中、石井鶴三、佐藤朝山らを知る。特に鶴三と親しくなり、互いにモデルになり制作する。
9月、<石井鶴三像>を第3回院展に出品、樗牛賞を受け、院友に堆される。有馬生馬が激賞する。
秋、田端261番地匠移る。
10月、<墓守老人像>を第10回文展に出品したが落選する。
10月中旬、彝の仲介で伊藤信と婚約する。
また、彝の推挙で実業家・今村繁蔵より毎月10円の援助を受け、やや生活が安定する。
「彫刻家になった動機及びその態度」を『人文』(10月号)に寄稿する。時々喀血する中村彝の看護にあたり、そこで曽宮一念、福田久道、鈴木金平を知る。<裸婦全身像>の制作に専念したが意にそぐわず壊す。
伊藤信、新潟に帰郷し、結婚の準備に入る。


谷中茶屋町 有馬生馬
平櫛田中
石井鶴三
佐藤朝山
今村繁蔵
曽宮一念
福田久道
鈴木金平
墓守老人像

喀血
1917 大6 29歳 3月、日暮里・七面坂下、戸張孤雁のアトリエの隣の富山館に移る。
4月、美術院第3回試作展に、前年制作した<墓守老人像>を出品し、美術院激励貰を受ける。
夏、<福田久道の首><裸婦トルソー>を制作したが意向そぐわず壊す。<男の脚>も5か月追究したが壊す。
12月22日、突然喀血したが大事にいたらず治まる。伊藤信上京して見舞う。
日暮里・七面坂下 福田久道
仏像彫刻へ
の関心

結婚式
1918 大7 30歳 4月、本郷・動坂町に下宿する。美術院第4回試作展に、素描<自画像>他3点を出品する。
夏、<裸婦トルソー>の制作に専念したが偶然破揖し壊す。
初夏から8月末まで、谷中清水町の佐藤朝山のアトリエで、<乞食老人像>を制作し、9月の第5回院展に出品、同人に推される。油絵で<日向こま子像>を描く。
10月、平櫛田中、石井鶴三、堀進二と奈良の古寺を巡り、日本の仏像彫刻への関心を深める。ロダンの「歩む人」と同じポーズの作品を造ったが壊す。
12月27日、新潟に発つ。29日、新潟大神宮で伊藤信と結婚式を挙げる。


新潟大神宮
奈良の古寺
日向こま子
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観閲点呼

再度喀血

(若きカフスカ人)
(憩える女)
1919 大8 31歳 1月5日、一人で新潟から帰京。
2月、美術院第5回試作展に、素描二点を出品する。
4月5日、上京した信夫人を日暮里渡辺町1040番地の新居に迎える。
20日、平櫛、石井、掘、保田、佐藤を招いて結婚披露の会食をする。信の兄・武夫の長男出産に<金太郎と鯉>を造り、祝に贈る。
8月、兜屋画堂の素描展に素描と<想える女>を出品。ロシア人・ニンツァをモデル匠、中村彝のアトリで制作、中断して自宅に持ち帰る。
ニンツァをモデルにした<若きカフスカ人>と春に制作した<憩える女>を第8回院展に出品する。
9月、観閲点呼を受けるために旭川に帰り、函館の親類によって帰京する。
10月初めから平櫛田中のアトリエで<平櫛田中像>の制作に着手する。
中旬石井鶴三と再び奈良を巡る。
11月、田中不在のアトリエで<栗鼠の灰皿>を制作。岡山から田中がもどり、再び<平櫛田中像>の制作にかかるが、風邪をひいて中止。
年末、再度喀血する。


日暮里渡辺町 信の兄・武夫
養父母上京

(考える人)

病勢大
1920 大9 32歳 健康がすぐれず研究所を休みがちになる。
1月、兜屋画堂で石井鶴三の最初の個展をみて「石井鶴三氏に就いて」(『現代の美術』3月号)に書く。
3月、養父母、東京・京都見物に上京、しばらく滞在、応接に努める。
初夏、石井鶴三と八ヶ岳登頂を企て、本沢温泉に泊まる。翌日、硫黄岳頒上に立つ。病状は小康状挙が続く。
7月11日、渡欧する保田寵門の送別会を世話役として浦和・大田窪の鰻屋で開く。
 21日、石井鶴三と共に横浜桟橋まで送る。
9月、院展洋画部主催の「フランス現代美術展」で、ロダンの<考える人>を初めて見る。
<中原夫人像><トマト><静物>などの油彩を描いたが、いずれも完成せず。
10月、岡田虎二郎の死に衝撃を受ける。その後も静坐を続ける。この年、「中村彝氏に就いて」「帝国彫刻短評」(『中央美術』11月号)のほか、「岸田劉生の絵を評す」「ロダンの目」などの評論を書く。
 寒さに向かって病勢大いに進む。

八ヶ嶽登頂
本沢温泉
硫黄岳
『中央美術』
11月号
(『現代の美術』
3月号)
養母ヨシ訃報

絶対安静

32年5ヶ月
の生涯

遺作展
1921 大10 32歳 1月15日、養母・ヨシ、病死の知らせを受ける。
1月17日、病状好転せずついに病臥の床につく。
1月下旬、実父・忠四郎見舞いに上京、以後看護の手伝いに努める。
3月中旬から喀血相次ぎ衰弱し絶対安静となる。
3月13日、養父・茂助が見舞う。
3月28日、午前7時20分、日暮里渡辺町の寓居で、32歳5カ月余の生涯を閉じる。信夫人、信の兄・武夫、実父・忠四郎、平櫛田中が看取る。通夜に石井鶴三、鶴田吾郎が加わる。石井鶴三が、死床の右腕を石膏に取る。



翌29日、病床の中村彝が新聞で知り、その新聞を引き裂いて泣く。
3月30日、午後1時、谷中坂町の宗善寺で、日本美術院による告別式が行なわれる。
4月初め、実父・忠四郎が遺骨をともない函舘に帰り、中原家の墓地(大谷派函舘別院船見支院)に埋葬する。
9月、第入回院展に際し、日本美術院で遺作展が開かれる。日本美術院から『中原悌二郎作品集』、アルス社から『彫刻の生命ー中原悌二郎とその芸術ー』が刊行される。


谷中坂町の
宗善寺
大谷派
函舘別院
船見支院
日本美術院
アルス社
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●参考とさせていただいた文献(一部引用出典)

旭川市教育委員会編『中原悌二郎賞』記念図録 第1回〜第31回 昭和45年〜平成12年
市立旭川郷土博物館編『山内壮夫遺作展カタログ』 昭和58年
生命の彫刻編集委員会『生命の彫刻−中原悌二郎の生涯』旭川市教育委員会 昭和63年
匠秀夫『中原悌二郎・その生涯と芸術』旭川叢書第2巻 昭和43年
中原悌二郎『彫刻の生命』中央公論美術出版 昭和44年
北海道立旭川美術館『鑑賞のてびき 中原悌二郎』
碌山美術館『中原悌二郎集』
旭川市教育委員会『あさひかわの彫刻』昭和62年
中原 信『中原悌二郎の想出』日動出版部 昭和56年
中原悌二郎記念・旭川市彫刻美術館『旭川市彫刻美術館所蔵作品図録』平成6年
中原悌二郎記念・旭川市彫刻美術館『あさひかわと彫刻』旭川叢書第25巻 旭川振興公社刊
碌山「愛と美に生きる」彫刻家荻原守衛 (財)碌山美術館・南安曇教育会 平成12年



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